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わたしの“ささやき” 2026年

主な介助をしていた小濱真実子が、アキこと夫・小濱洋央のブログ『Sasayaki diary』『ささやき』などのこぼれ話や思い出話を綴ります。 (テーマ別 /  2023年 /  2024年 /  2025年 /  2026年)

【小濱洋央の文章】

*お知らせ* 2026年 5月、妻よりご挨拶 を更新いたしました。

オーダーメイドの雨合羽 ⁄ 2026年10月16日 金曜日

  ひどく暑い日が続いている時の合間に、

雨が降って涼しくなるのは本当に助かります。

そんな雨は大歓迎ですが、それ以外の時の

雨の日に外出しなくてはならなくなると、

ちと面倒です。

ボクは普段から電動車いすを使って

生活していますので、尚更でございます。



  もちろん、手立てがないわけではありません。

オーダーメイドの“雨合羽”を着て、

雨の中を電動車いすでぶっ飛ばして行くのです。



  “雨合羽”の商品名は、

「車椅子用レィンウェア」

作って下さったのは、

グループカーム(藤沢市)です。

大雨でもあまり濡れずに外出できるので、

とても助かっています。



  ただ、雨合羽に難点がないわけでは

ありません。それは、お片付け。

ハンガーに吊るして乾かして

介助の方に頼んで畳んでもらうのも、

それなりに手順を伝える必要もあったりして、

決して楽ではありません。

雨をしっかり防いでくれて、

ささっと片づけられる雨具があったらいいなあ、

としばしば考えます。



  とは言え、

大雨でしたらそんな手間も納得できてしまうのですが、

小雨だったり、あるいは目的地に到着する前に

からりと晴れ上がってしまったりしますと、

何とも言いようのない損した気持ちに

なってしまいます。

まだまだボクは小者です。



  そのような事態を未然に防ぐためには

大きな傘が重宝します。

まあ、これについてはまたの機会に。

 雨、雨、雨だった先月。

 思い出すのは、あつらえた雨合羽、「車椅子用レインウェア」 。

 このレインウェアのポイントは、レインハットとマントと足カバーが別々になっていて、それぞれがしっかりカバーしていること、電動車いすの操作盤の部分を透明にしていること、マントが車いすの後ろのリュックまで覆っていること。

 雨具を作ってくれたグループカームは、「企業とボランティアの間を埋める形」(代表・小澤洋子さんの著書より)で活動をしていた。

 高齢や障害で市販の衣服が合わない人のために、衣服を中心に作ったり、作り替えたりされた。ある程度の費用はかかるが、でも利益優先でないやり方だった。

 代表の小澤さんが精力的に動かれていて、わたしたちは新聞記事か何かでその活動を知った。自宅から勤務先が少し遠くなり、雨具が必要になっていた。1998年頃のこと、電話をしたら、小澤さんは、藤沢市から、板橋区のわたしどもの当時の自宅まで電車で来てくださり、丁寧に話を聞いて、制作に取り入れてくれた。

 団体は30年以上続いていたが、コロナ禍で活動がしづらくなり、メンバーの高齢化もあり、残念ながら今はもうない。

 現在では、特別仕様の雨具をはじめ衣類を扱う企業も現れ、インターネットで購入できるようになっている。

 車いす利用者の雨具の需要は多いのに、費用が余分にかかりがち。

 そこで、自治体による生活支援というのがある。「日常生活用具の給付」に「車いす用レインコート」が加わっているところもある。この制度の品目は自治体によって違うのだが。

 特製の雨合羽は雨から身を守ってくれたが、アキが嘆いているように、片付けに手間がかかってしまう。

 その解決策になるのは、もっと大きな雨具。それは車だった。うちに車はないけれど。

お湯をください ⁄ 2026年9月18日 金曜日

 9月に入って涼しくなった先日のこと。出先で町中華のお店に入ったら、
「冷たいお水と、温かいお茶、どちらにしますか?」
と聞いてもらえて、
「温かいお茶をお願いします」
すかさず答えた。
こういうふうに聞いてくれるお店って、少ないと思う。

 見回すと、他のお客さんたちはみんな冷水だったけれど。

 とくに夏場、日本の飲食店に入ると、たいてい冷水が出される。

「すいません、お湯をください」
が、そんなお店でのアキのお決まり文句だった。

 お茶でもいいのだが、冷水よりはお湯なのだ。

 すんなりとは通じないで、
「えっ?」
と聞き返されることが多い。

「白湯です」
などと言い直したりしていたけれど、これも通じないことがある。

 しばしのやり取りのあと、 幸い、断られることはなかったと記憶している。

 「わたしにも」
と、それに便乗する自分がいた。

 アキはお腹があまり強くなかったし、体が冷えやすいこともあり、冷たいものはできるだけ避けていたのだ。わたしも温かいものの方が好きなので、ちょうどよかった。

 お湯を頼むと、熱いのがくることがあって、これには気をつけないといけない。そんなときに、最初にもってきてくれた氷水の氷が役に立つ。
お箸やスプーンで氷を熱湯のコップに移動させると、ちょうどよくなる。だから、氷水もそのままにしておいた方がいい。

 アキがいなくなってから、自分でお湯を頼むことがある。これが簡単なようで、意外と勇気の要ることだった。

ソフトモヒカンの頃 ⁄ 2026年8月14日 金曜日

 アキはかつて職場の中の理容室に、介助パートさんの同行で2~3週間に一回通っていた。短髪を、まめに整えていたのだ。

 2011年、夏の暑さから、襟足の刈り上げ方が激しくなってきた。

 「ソフトモヒカンっていうらしいよ」
アキがニヤッとする。

 翌年の夏には、上に残す部分もどんどん短くなった。

 残す部分の後方が丸くなり、後ろから見てV字になった時には、思わず笑った。髪が少し伸びると、頭の上にナマズを飼っているようだった。

 その次の年、家でもできそうだと、アキがネットで注文したバリカンで、わたしが刈ることになる。上はバリカンの2ミリで、横と後ろはT字カミソリで剃った。作業自体は難しくないのだが、後片付けが少々面倒だった。

 2年ほどのソフトモヒカン期を経て、その夏にはついに全部剃ることになった。これは猛暑で寝込んでしまうすぐ前のことだ。

 毎朝、電動シェーバーで髭を剃ってから、頭も剃ることになる。

 剃髪頭を毎日、濡れタオルで拭くことで清潔が保っていた。あとは、週1回の入浴サービスで洗髪していただけばいい。

   理髪店通いと洗面所での洗髪は要らなくなった。電動シェーバーのお掃除が増えたけれど。

 アキは夏場の寝床でアイスノンを愛用していたが、この頭だと冷たさがよく感じられるようで、

「たまらないねェ」

と満面に笑みを浮かべていた。

先輩の言葉と言えば ⁄ 2026年7月17日 金曜日

  “思っていた(計算)結果が出たときは、

  気を付けた方がいいよ。

  たいてい間違っているからね。”

  ボクが自分で作ったプログラムで

修士論文を書くための数値計算を始めた頃に

2年先輩の博士課程の大学院生に

かけてもらった言葉です。

  実際、そういうことは、よく起きます。

思っていた結果が出たときこそ、

あの手この手で入念な確認は欠かせません。

  言ってくれたご本人は忘れてしまったかも

しれませんけれど、

ボクは今でも事あるごとに思い出しては、

戒めとしております。

  研究不正に注目が集まる昨今に限らず、

自分の出した答えについて、

 間違っているかも!

という視点は常に持っていたいもので

ございます。

 大学院時代から歳月がだいぶ経って、別のかなり上の先輩研究者が口癖にしていた言葉が、「休み休みで元気よく」。

 恰幅がよくて、いつもニコニコしている印象のオジサマだった。

 年齢を重ねて、体の不調が出やすくなる中、ご自分を労わっていらしたのだろう。

 その言葉をアキが気に入った。色紙にその方に書いていただき、額縁に入れて、長いこと自宅の部屋に掲げていた。自分でもよく口にしていた。

 これからの過ごしにくい時期を乗り切るためにも、思い出したい言葉だ。

 と書いてきたところで、その研究者の方の消息を調べたところ、今年の2月にご逝去されていたことがわかった。

 池田清美さん、ご冥福をお祈りいたします。大変お世話になりました。

 前の引っ越しで段ボール箱にしまいこんだままの色紙に、また会いたくなった。

俳優座スタジオに行ってきました ⁄ 2026年6月17日 水曜日

 昨年、4月に俳優座劇場が閉鎖したと書いた(2025年4月11日付け)。

 俳優座スタジオという所で「ファーム・ホール」という興味深いお芝居が上演されることを知ったので、昨日足を運んだ。

 俳優座劇場は吉本興業の劇場に変わっていた。下調べはしていたものの、外から見た雰囲気の違いにハッとさせられる。

 俳優座スタジオは、建て物の右側に回ったところの裏口のようなところから入って、小さなエレベーターで上がって5階にある。このエレベーターは狭い上に奥行きがなくて、電動車いすは乗れなそうだ。古い建て物ゆえだろうが、この点は大変に残念だった。

 会場は客席100ほどの規模の小劇場で、傾斜が大きく、最後列でも観やすかった。

 出演者は6人のベテランらしい男優さんだった。

 1945年、イギリスのファーム・ホールという屋敷にドイツ人科学者たちが半年間、幽閉されていた。第二次世界大戦のドイツ降伏後に、連合国がドイツ核開発の実態調査のために行った作戦だという。この演劇は、そこでの盗聴記録を基に作られた。

 客席からは、その幽閉されている様子を覗き見ている感じで、劇場の造りが内容に合っていた。俳優さんたちが、それぞれ個性のある科学者として振る舞って、その苦悩をよく表現していた。科学が人を不幸にしてしまうことに使われるのは、人間としてつらいことだ、と痛感した。

 アフタートークでは、アキの上司であった理研の櫻井博儀さんが登場。

 聞き手の方が、先生と呼びたがって、櫻井さんはそれを嫌がって、そのやり取りが笑いを誘う。自分たち研究者同士も対等な立場で接するという話をされ、たしかにそんな感じだったよなと思った。議論に上下はないのだ。

 最近は核のゴミの処理についての研究に力を入れているという話が聴けて、心強かった。

 こういう作品が、多くの人に観てもらえたらいいのに、と思わずにいられない。

根津の町を歩いてきました ⁄ 2026年4月17日 金曜日

 向ヶ岡学寮がついに五〇周年を迎える。その知らせには、近いうちに廃寮となる見通しが強いという話も書いてあった。めでたいのか寂しいのか複雑な気持ちで
 「何それ、マジかよ」
とつぶやいた。


 一九八八年四月に私は大学院理学系研究科に入学した。そのときから、本郷での学生生活と寮の生活が同時に始まる。大学院からの入寮は、通常は認められていない。私は車いすを使って生活しているため、例外にしてもらえた。

 同じ時期に寮生だった方が、夫の旅立ちを今年になって知ることになり、お彼岸の前に悼んでくださった。

 お気持ちがありがたく、アキが寮にいた頃のこと、寮を出て近くに住んでいた8年弱のことが思い出された。

 先日、他の用事のついでもあり、文京区の住んでいた辺りを久しぶりに歩いてみた。

 最寄りの地下鉄の根津駅にはかつては長い階段しかなかったが、さすがに今はエレベーターが備わっている。

 町はそれなりに変わっていた。建物は全体的に巨大化していたが、残っていたものも少なくなかった。たまに一緒に行っていた豚カツ屋さんはなくなっていたが、から揚げの美味しかったお肉屋さんは残っていた。

 住んでいた小さなマンションは、少し古びて生き延びていた。入居時の35年前は新築だったのだ。

 わたし達のいた1階の部屋は日当たりが悪く、訪ねてきてくれた伯母に「半地下だね」と憐れまれたものだ。立地のよい物件で家賃を払えるところをやっと見つけたので、半地下なんて気にしていなかった。

 寮までの道のりは大学の敷地沿いを通る。あの頃お休みの日に敷地内で勝手に二人でバドミントンをやっていた。何度か近所のおばあさんが見に来て、将棋とお酒の好きだった旦那さんの話をしていった。今ではそんな、いい加減な空間はなくなっている。

 寮の方に、アキの研究に通う際の介助をお願いしていたこともあった。車いすからベッドへの乗り移りの介助中にアキが床に落ちてしまい、慌てて寮に電話をして、助けを呼んだこともある。この道を急いで来てくださったのだろう。思いの外、距離がある。

 そんなことを考えていると、寮のあった場所が眼前に現れる。しとしと雨の中、桜の古木たちが花を咲かせはじめていた。

 白いお上品な2階建ての洋館が、澄ました顔をしていた。黒っぽくて和風で生活感のあった(わたしの印象では)寮とは対照的だ。大学関係者用の宿泊施設になっていて、レストランは外部の人も利用できるようだ。

 お庭には学寮址を表す石碑がある。寮の関係者でお金を出し合って建てたものだ。レストランは開店時間前だったので、敷地内に入ることはあきらめ、後ろ姿の石碑にご挨拶となった。

 「第二の故郷だよ」とアキが馴染んでいた根津の町は、面影を残しつつ、穏やかに迎えてくれた。

ハーモニカとのお付き合い ⁄ 2026年3月14日 土曜日

 これ何? 澄んでいて、きれいな音色。聴いていたら、クロマチックハーモニカとのことだった。クラシックでオーケストラとの共演というのにも驚いた。

 2003年1月のある朝、いつものようにアキの出勤前の支度をしていた時、ラジオから流れてきた音がきっかけだった。

 「ハーモニカなら高校の音楽の時間に吹いてたよ」
とアキが言いだす。
「どうやって?」
「ホルダーで固定して」
「そっか。じゃあ、また吹いてみたら?」
と、急に話が盛り上がった。

 それからハーモニカについて調べたら、いろいろな種類があるらしい。クロマチックハーモニカは、横に付いているレバーを押して半音を出せるのだ。2週間後には、池袋の楽器屋さんへ一緒に行って、ハーモニカとホルダーを買っていた。

 ハーモニカがホルダーからずれないように、消しゴムを挟んだのは、アキのアイデアだった。

 わたしの方が物理的にも時間的にも通いやすいので、ハーモニカ教室で習ってきて、技を伝授したりもした。

 そうして、自宅で一緒に吹いていた。「ハモろうよ」の呼びかけで始まる合奏を、少なくともわたしは楽しんでいた。

 アキがレバーの操作をどうするかというモンダイについては模索した。ハーモニカの先生に聞いたり、自助具工房に問い合わせたりもしたが、後回しにしてしまっていた。

 2007年3月には、アキの勤め先である理研の器楽同好会の「春よ来い」スプリングコンサートに出演した。

 理研内のホールで、研究者や事務職員の方々が、ピアノ、ヴァイオリン、サクソフォン、リコーダーなどを演奏する。プロ級の方々もいらして、刺激的だった。

 素人部門のわたし達は、オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」を二重奏した。いま振り返ると、演奏者にふさわしくないロマンチックな選曲だった。けっこう緊張したのを覚えている。

 ところで、クロマチックとは半音階の、という意味だ。それが結局、アキの場合「名ばかりクロマチックハーモニカ」だったのは、ちょっと残念なことではある。

映画館で「マジンガーZ!」 ⁄ 2026年2月13日 金曜日

 近ごろ体調が少し上向いてきたもので、

とても久しぶりに、

映画館で映画を見てきたのでございます。

 『劇場版 マジンガーZ / INFINITY』

  妙な専門用語が飛び交い、

突っ込みどころ満載ではありましたが、

楽しんで参りました。

  光子力って何なんだぁ?!

  池袋の映画館に行ったのですが、

地下2階の上映階まで階段しかなかったのは残念でした。

せめてもの救いは、従業員が快く階段の

上り下りを手伝ってくれたことではあります。

  観客には、かつてテレビアニメで

『マジンガーZ』に熱中したであろう方々が多数。

ノスタルジーを感じてしまうのでしょうねえ。

かく言うボクもその一人ではございます。

  それにしても Wikipedia によりますと、

主役の「兜甲児」って、

ロボット工学が専門の科学者だったんですねぇ。

 晴れていたが、それなりに寒い日だった。

 地下2階までの階段を、劇場のスタッフの方々に手伝っていただいた。この築30年越えのちょっと古い映画館は、翌年に閉館している。設備の整ったところに、めでたく引き継がれた。

 黒っぽい上着をまとったおじさん達に混じって、客席へ。

 巨大ロボットアニメというらしい。こういう類の映画を見慣れていないわたしは、迫力ある画面と大音量に圧倒されていた。話の内容はよく理解できていなかったように思う。

 でも、水木一郎さんの歌う主題歌は知っていた。終盤の高揚感で、二人とも歌い出しそうな勢いだった。

 劇場でアキと一緒に観た映画といえば、「風の谷のナウシカ」に始まり、「ネバーエンディングストーリー」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、「あ・うん」、「外科室」、「チルソクの夏」といったところが印象深い。古いものが並んでしまったが。お互い多少の我慢をして、相手の好みに付き合っていたものだ。

 それで最後が「マジンガーZ」になったのは幸いだった。今のわたしは、観たい映画を勝手に観ているのだから。

 ちなみに、マジンガーZの動力源である架空の「光子力」について、アキは 翌月11日のブログで解説してくれていた。

在宅勤務で知ったこと ⁄ 2026年1月23日 金曜日

 ここ数日、偏西風の蛇行が原因となって

この冬一番の寒波が襲来しているらしいです。

それでひどく寒いのですねえ。

 気象情報サイトを見ておりましたら、

東京23区の“極寒の地”(そして夏は“猛暑の地”)として

今や全国的に有名になってしまった

練馬区の最低気温は、

今日が零下3.2度、そして昨日が零下4.0度

と記録されていました。

東京で零下なのでございますよ!

観測地点は練馬区石神井台。

このような低い気温には、

久しぶりにお目にかかった気がします。

そろそろ寒さの底となっていただきたいものです。

 いやはや、オチがなくて申し訳ございません。

 冬の仕事場で、彼女たちは薄着だった。半袖のTシャツ姿だったりした。寒くなると、思い出す。

 コロナ禍で、今から6年前からしばらくアキも在宅勤務になった。それに伴い、仕事中に手伝ってくれるパートさん達に、自宅に来ていただくことになる。

 わたしは、もともと基本的には家にいる。ちょっと緊張しながら、それまで知らなかった情景を目の当たりにした。

 アキは自分の見える所に温湿度計を置いて、居室を暖かくしていた。本人はしっかり着込んでいる。パートさんは、その環境に対応してくれていたのだ。わたし自身が寒がりだから、その服装にハッとしたのかもしれない。

 6人ぐらいの方々が一人ずつ、午前と午後の交代制だった。皆さん、自分のやり方を通す人間に、よく付き合ってくださっていたものだ。

 在宅勤務の際、もうひとつ驚いたことがある。

 アキが介助パートのそれぞれに対して、その人に合わせた雑談をよくしていたのだ。こんなに喋るんだ。こんなに気配りするんだ。

 長く勤めてくれていた方もいるが、そうもいかない方もいて、
「仕事を覚えたと思ったら辞められちゃうんだよね」
と嘆いていたアキの配慮でもあったのだろう。


 その一方で、「こっちにも気遣ってほしいよ」と、わたしは不満だった。この経験で、自分は体だけでなく心まで小さい奴だと思い知った。